生い立ち

【母が語る〝藤田りょうこ〟の生い立ち】

1974年8月11日、暑い真夏の太陽が昇り始めた朝、りょうこは都立荏原病院で産声をあげました。体重3130グラム、身長52センチ、元気な女の子でした。お風呂に入れミルクを飲ませれば一人でいつのまにか寝てるという、本当に手のかからない子でした。
生後4か月で久が原共同保育園に入園しました。当時はまだ公立保育園での産休明け保育がない時で、仕事をしている母親のほとんどが、無認可等の私立保育園に子どもを預けていました。

(生後一ヵ月半の頃)

現在保育園に入れない待機児が社会問題になっていますが、当時も第2次ベビーブームで、久が原共同保育園でも多くの子どもが認可保育園に入れませんでした。預け先がどうしても見つからず遠くの実家に子どもを預け別々に暮さなければならない深刻なケースもありました。私も預け先がなく自宅で仕事(婦人服の縫製)をすることになりました。
初節句に着ている着物は、私のお宮参りのものです。

オムツをとる練習をして一ヶ月余り、オマルでおしっこが出来ました。毎回上手に「おしっこ」と言えるようになると、今度は夜でのオムツでおしっこが出来ません。その度に、エーンエーンと泣いて私を起こします。ほとんどおもらしをしない、手のかからない子でした。(オムツも取れた2才、10月の京都で)

よくおばあちゃんと買い物に出かけますが、ある日、「りょうこちゃんがいなくなった」とあわてて帰ってきました。迷子です。私も一緒に探しましたが、見つかりません。もしや、ともう一度いなくなった場所に行くと、10円くらいで動くパンダに乗ったまま、にこにこしていました。この頃からハサミを上手に使ったり、落ちていた洋裁用の待針を小さい指で拾ってくれたり、写真の様にお茶まで上手に入れてくれました。

(3才のころ)

家から一番近いということで調布幼稚園に入園しました。はじめは送って行きましたが、子どもだけの通園も認められています。それではと何日か練習し、いよいよ一人で行く日が来ました。
通りに出て、「お母さんはここまで」ここから一人でいってごらんと言っても本人は「いけない」の一点張りです。私も意地になり、しばらく押し問答した後で諦めたのか後ろを振りかえりながら泣き泣き出かけました。
今度は帰ってくるまで心配です。ガラガラと玄関を開けたとたんに大きな声で「ただいま!ひとりで行けたよ!」という自信に満ちた声が返ってきました。

(4歳、幼稚園の遠足。左手前がりょうこ、その上がおばあちゃん。)

私が夫と知り合ったのは目黒労働学校でした。地域の職場から多くの若者が労働学校に参加し、労働組合だけでなく働くものの歴史を学びました。
目黒学習協では学習合宿やキャンプ、ハイキング、スキーツアーなどたくさんの企画がありますが、その多くにりようこを連れていきました。お兄さんやお姉さんにたくさん遊んでもらいました。
そんな環境が、人見知りせず、大人と平気で話せる子どもにしたのかもしれません。

(5歳、目黒学習協の旅行。最右がりょうこ)

4月、雪谷小学校のぴかぴかの1年生になりました。幼稚園までは「ママ」「パパ」と言っていたのに、小学校に上がる少し前になると突然「私これから“おかあさん”“おとうさん”にするから」と宣言し、呼び方をかえてしまいました。

(6歳、雪谷小学校の入学式。右がりょうこ)

七五三。晴れ着を私の妹から借り、髪も上げて髪飾りをつけました。まぶしいような少女の出来上がりです。商店街を歩いて神社に行くときも、お父さんは少し照れて離れて歩いていました。
確か2年生だったと思いますが、麻疹にかかりました。医者は久しぶりにちゃんとした麻疹を診たと、ちょっと嬉しそうでした。それまでは時々熱を出していましたが、麻疹を乗り越えてからは、熱も出さず、病気で学校を休むことは全くなくなりました。

(7歳、七五三のりょうこ)

小学生になると私の友達と一緒に冬はスキー、夏は山登りに毎年のように出かけました。
小学校一年生で初めて八方尾根を歩いた時は、少し歩くと疲れたと言ってすぐストップ、なかなか前に進みませんでした。
それでも4年生くらいになると北八ヶ岳横岳から硫黄岳までなんとか歩きとおしました。スキーも少しずつ滑れるようになっていきました。

4年生ごろになるとミシンを覚え、袋物やゴムスカート、ミニスカートも作れるようになりました。仲のいい友達のみゆきちゃんと一緒に、いつも何か作っていました。そのみゆきちゃんが5年生になると小田急線の柿生に引っ越してしまいました。

大好きなみゆきちゃんに会うために、はじめのころは私が連れて行きましたが、そう度々連れてはいけません。そこで、一人で雪谷-五反田-新宿-柿生と3本の電車を乗り継いで会いに行っていました。親がだめだと言っても、本当にしたい事は必ず実現させる。その性格は今でも変わっていません。

(小学校の遠足で。右下がりょうこ、隣はみゆきちゃん)

5年生になると運動会で一番先頭を歩く鼓笛隊に参加できます。りょうこはどうしても鼓笛隊で小太鼓を叩くと決めたようです。そのためにはテストがあります。
思い込んだら命がけ、毎日毎日練習です。バチだけを買って机、食卓テーブルなど叩けるところは何でも叩いていました。その甲斐あって見事鼓笛隊に入ることができました。写真はその晴れ姿です。

(運動会にて、中央がりょうこ)

六年生の秋、私が急に区議会議員の候補者に決まりました。そこで家族3人目黒に引っ越すよとりょうこに伝えると、「私は行かない、おばあちゃんと一緒にいる」というのです。来年は中学生、難しい年頃の娘を祖母に頼むわけにはゆきません。小学校の担任に相談すると、「友達や大好きなおばあちゃんと離れるのは寂しいでしょうが、いざとなれば親といっしょに行きますよ。わたしが説得してみましょう」と言ってくださいました。
しばらくして先生から、「よく話したのですが、行かないという決心は強く説得できませんでした。りょうこさんはしっかりしているから大丈夫でしょう。中学の先生に申し送りしておきます。」ということで私たち夫婦だけが目黒に越すことになりました。“自分で決めて行動する”自立心が育ったのも早く親から離れたからかもしれません。

(選挙用パンフレットの写真 右から私・母、りょう子、 祖母、祖父、父と自宅前で)

無事雪谷中学校に入学しました。親がいないということを気にしてくれていた担任は、時々、「沢井だいじょうぶか、がんばっているか」と声をかけてくれていました。体育の教師でバレーボールクラブの顧問で、ちょっと怖そうな女性の教師でしたが、自分のことを気にとめてくれている先生が学校にいるということで、どれだけ娘の心が支えられたか。

クラブ活動をバレーボールに決め、厳しい練習にも頑張っていました。娘がその先生を信頼していることが私にもよくわかりました。先生もちょっと大人っぽい娘に気軽に何か頼んでいたようです。

(雪谷中学校の入学式)

中学校三年、高校受験を前に親たちは進学先の情報交換で過熱気味。子どもたちはそんな緊張感から逃れたいのか、学年最後の行事に夢中になってゆきました。 とりわけ運動会はクラスの団結が重要と、応援団の練習に熱が入ってゆきます。我が家にはたくさんの子どもたちが集まり、立派な応援団旗をつくっていました。
早朝、クラス全員が近くの公園に集まり、応援旗を振り、大声を出したものですから、近所から学校に通報。学校から厳しく注意を受けるハメになりました。
また、ある時は、ボーリング場に子どもたちが集りトラブルになっているという連絡があり、親たちが駆け付けたこともありました。
若いエネルギーが出口を求めて走り出しているような時期でした。
そんなこんなで受験勉強に手がついたのは年が明けてからでした。無事希望校の都立大森高校に合格。
りょうこは友達のものも含め制服のスカートの丈直しに毎日追われました。中学時代に流行したロングスカートはショートに変わっていました。わたしが見てもていねいな仕事で出来栄えはなかなかのものでした。

(3年C組の応援団旗)

高校1年、バブル下で、高校生の生活にも影響が出ていました。当時、女子高生がコンビニなどのバイトでたくさんの収入を得ていました。主婦のパートよりも多い高校生のバイト代、どこかが狂っています。
そんなことでは、金銭感覚が狂うのではと、我が家は当面はバイトを禁止しました。娘も理解し特に反発はありませんでした。
小遣いも沢山はあげていないので、友人とのお金の使い方にずれが出てきます。部活の帰りに飲食を誘われても、お金を出すのはもったいないと何度か断ると、とうとう誘ってくれなくなったこともありました。
ある時、渋谷からの帰りが遅くなり、「今から帰る」と電話のあとなかなか帰ってきません。やっと帰ってきたので訳を聞くと、お金がもったいないのでJRは使わず、東横線で渋谷‐自由が丘‐旗の台‐雪が谷で帰ってきたそうです。そんなことがあってか、お金も物も時間も無駄にしないしっかり者になりました。

(高校一年の体育祭、バレーボール部の友だちと。右がりょうこ)

2年生になると進路をそろそろ考えなければなりません。大学進学は考えてなかったので、どんな仕事をしたいのかということになります。祖母が大好きだったこともあり、高齢者を支える仕事がしたいということでした。
それなら特養ホームのヘルパーがいいということで、介護の資格を取ったらと先生に相談をすると、看護婦なら国家資格で高齢者の看護もできるのではないかということになりました。その頃大田病院から、「1日看護婦体験」の募集があり、さっそく友人何人かと参加し、看護婦になる決心をしたのです。
2年生も終わりごろいよいよ受験準備です。看護専門学校なら大学受験の勉強をしなくても入れるのではと思いましたが、先生からは、都立医療技術短期大学を勧められました。受験勉強を全くしてこなかったりょうこが今から受験勉強をして間に合うのでしょうか。まったくわかりませんでした。

(大田病院の「1日看護婦体験」で。左端がりょうこ)

高校2年の2学期の終わりごろ、本人のレベルに合わせて個別指導もしてくれるという進学塾をりょうこが決めてきました。はじめのうちはどうにか通っていましたが、3年生に入り、個別指導から一斉授業に変わると、そのスピードに全くついてゆけず、あまり弱音を吐かないりょうこがとうとうやめたいと相談してきました。
わからない授業をいくら受けてもつらくなるばかりなので進学塾をやめ、受験も一般入試から推薦入試に切り替えました。それまで無遅刻無欠席、1年生の時からまじめに勉強していたこともあり、成績も推薦を受けることができる程度であったことが幸いしました。あとは小論文です。これには高校の先生の指導援助で本当に助かりました。
いろんな幸運に恵まれ、ただ一つ受験した都立医療技術短期大学に無事合格できました。このころの就職状況はバブルということもあり、売り手市場で、高卒でも銀行も含め大手企業に就職することができました。 無理な大学受験をし、浪人するくらいなら就職したほうがいいという時代でした。

(当時から得意だったマラソン、校内大会で1位になった。場所:こどもの国)